ボルトも吐きながら走っていた “世界2位の日本人”が体感した「天才」コーチの練習
2014年11月、ビーチフラッグスで“世界ナンバー2”まで上り詰めた和田賢一は、走力を磨くためにジャマイカへ飛んだ。
この年の全豪選手権で和田は準優勝していた。
スタートダッシュのテクニックを極めた成果だった。
ビーチフラッグスでは、全豪選手権が最高峰の大会である。
決勝戦で勝者と敗者を分けたのは、わずかに10~20センチ。
優勝したのは、和田が直前の大会で勝っていた相手だった。
また全豪11度の優勝を誇る伝説の王者サイモン・ハリスにも、同選手権の前哨戦と言われる州大会では勝つことができた。
世界のトップグループに食い込み、頂点に肉薄しているのは紛れもない事実だった。
だが「そのなかでタイトルを獲れるかどうか、その明暗を分けるのが運ではないのか?」と問うと、和田はきっぱりと否定した。
「ビーチフラッグスは100年以上の歴史を持つ物凄く洗練された競技なんです。運じゃない」
つまり和田は10センチの僅差を、運に頼ることなく実力でつかみ取るために、世界一のスプリンター、ウサイン・ボルトが所属する「レーサーズ・トラック・クラブ」にやって来たのだった。
首都キングストンに着いたのは深夜だが、街中にはレゲエが響き渡っていた。
長旅を経てホテルに着くと、約束したはずなのに鍵が届いていない。
物事がすべて予定通りに進む日本とは異なり、こうしたトラブルは日常茶飯事だった。
それでも幸運なことに、現地で交渉の末に大学敷地内にある寮に入れてもらうことができた。
「調理師や栄養士がいて、食事の心配が要らない。本来は諸外国の有望な選手だけが入寮を許されていました」
クラブにはボルトを筆頭に、2011年韓国・大邱で行われた世界陸上の100メートルを制したヨハン・ブレーク、2012年ロンドン五輪200メートル銅メダルのウォーレン・ウィアなど錚々たる顔ぶれのトップスプリンターが集結し、カリブ海諸国やアジアから来た将来性豊かな選手たちも一緒にトレーニングを積んでいた。
一方、和田を待ち受けていたのは、走る以前に自分を認めてもらうための闘いだった。
トラックに顔を出しても、紹介も指示もなく勝手にトレーニングが進んでいく。
「ここでは自分から動き出さなければ何も始まらないんだな……」
そう感じて一人ひとりに挨拶して回ると、取り敢えず中国人を略して「Chin」と呼ばれるようになるが、そこで妥協するわけにはいかなかった。
「オレは中国人じゃない。日本人だ!」
これで呼称は「JAPAN」に修正された。
「いやいや、オレは国じゃない。ケンと呼んでくれ」
結局、名前を呼んでもらうまでに1か月を要した。
ただしこの間も和田は、速く走るためのヒントを見つけ出そうと徹底してボルトに張りついた。
ボルトと一緒に、あるいは後の組で走り、脳裏に映像を焼きつけて帰る。
寮では自分の走法との違いを書き出し、改善の仮説を立ててはトラックに出て検証を繰り返した。
ボルトが持って生まれた才能だけで世界一になったわけではないのは明白だった。
ここでのトレーニングの厳しさには定評があり、ボルトは毎日のように吐きながら走っていたし、和田は滞在中に走り過ぎて気絶した選手を2人も見た。
またボルトの両親が駿足だったわけではないし、兄や妹も陸上選手だが特別に優秀なわけではない。
実際ボルトは、100メートルスプリンターの理想像にはほど遠かった。
ボルトが登場する前に世界選手権の100メートルを制したタイソン・ゲイは178センチ。
196センチは長身過ぎるし、脊髄側弯症の影響もありストライドが左右で20センチも違った。
当初グレン・ミルズコーチは200メートルを中心に400メートルも視野に入れていた。
ところが400メートルの準備が不十分なまま大会が近づき、急きょ代わりに100メートルを走らせてみたら10秒30をマーク。
ぶっつけ本番としては破格の記録で、可能性を感じ軌道修正を施していく。
そして2008年北京五輪では9秒69、翌年の世界選手権で9秒58まで世界記録を短縮した。
ジャマイカでは、北京、ロンドン両五輪で100メートルを連覇し、今年の世界選手権で女王に返り咲いたシェリー=アン・フレーザー=プライスも152センチ。
次々に規格外のチャンピオンを生み出して来た歴史があり、それらの快挙を代表チームのヘッドコーチとして主導して来たミルズは、十代の早い時期に選手への道を諦め、早々に指導歴をスタートしている。
ある時、和田は直接ボルトに速く走る秘訣を聞いてみた。
「オレは自分の走りに集中しているから分からない。でもコーチ(ミルズ)は天才だ。彼の言うことを聞け」
和田は日本で「速く走るのは才能だ」と言われ続けた。
しかし世界一のスプリンターを育てたのは、速く走った経験のないコーチだった。
そこに技術論があるのは明白だった。
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